明治時代に出雲松江藩の家臣・小泉家に生まれた小泉セツ(こいずみ せつ)さん。
NHKの朝の連続ドラマ小説『ばけばけ』のモデルとなったことでも知られています。
小泉セツさんは、のちに作家となる小泉八雲(こいずみ やくも/ラフカディオ・ハーン)さんと結婚しました。
実は2人の結婚前、小泉セツさんは前田為二という男性と結婚していたことはご存じでしょうか。
今回は、小泉セツさんと小泉八雲さんの馴れ初めやお2人の子ども、元夫・前田為二さんとの離婚理由について紹介します。
小泉セツの夫は小泉八雲

小泉セツさんは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんと結婚していました。
小泉八雲さんといえば、著書「怪談」などを通して日本文化を世界に広めた人物として知られています 。
そんな八雲さんのプロフィールと経歴は以下のとおりです。

名前:パトリック・ラフカディオ・ハーン/小泉八雲
生年月日:1850年6月27日
没年:1904年9月26日(享年54歳)
出身地:ギリシャ西部 レフカダ島
職業:随筆家、日本研究者
アイルランド出身の父と、ギリシャ出身の母の間に生まれたラフカディオ・ハーンさん。
のちに日本に帰化して「小泉八雲」に改名するまでは、イギリス国籍でした。
幼少期に両親が離婚したり、大叔母に引き取られたりと、なかなか激動の人生を過ごしていたようです。
2歳: アイルランドに移住
11歳: フランスの教会学校に入学
13歳: イギリスのカトリック系学校に入学
16歳: 学校での事故で左目を負傷、失明する
17歳: 大叔母の破産により学校を中退
19歳の時、八雲さんはアメリカ・シンシナティに渡り、印刷屋での仕事を始めました。
そして、自身が書いた物語を週刊誌に投稿するようになります。
貧しい暮らしを経験したのち文才が認められ、24歳の時には週刊誌の創刊に携わりました。

小泉八雲さんは、24歳〜27歳の間に黒人女性と1度目の結婚をしています。
しかし、前妻が急逝したことで結婚生活はわずか2年で終わりを迎え、同時期にニューオーリンズへ生活の場を移しています。

波乱万丈な人生を送っていたんだね
八雲さんが日本文化に興味を持ったきっかけは、ニューヨークで読んだ「古事記」の英訳とのこと。
また、ニューオーリンズ時代に訪れた万博で日本館の展示品に触れたことも影響しているんだとか。
そんな八雲さんは40歳の頃に来日、島根県尋常中学校と尋常師範学校に英語教師として赴任しました。
【尋常中学校】 ※現・島根県立松江北高等学校
現在、八雲さんが赴任した尋常中学校は島根県立松江北高等学校に、尋常師範学校は島根大学となっています。
【尋常師範学校】※現・島根大学
八雲さんの初めての日本での生活は『富田旅館』という宿から始まります。
ここで八雲さんは3ヶ月ほど滞在したといいます。
【富田旅館】 ※現・大橋館隣
島根県には、八雲さんが愛読した『古事記』にゆかりのある場所が数多く存在しており、八雲さんは次のように語っています。
神々の国・日本の中でも一番神聖な地とされるのが、出雲の国である

島根の地に対する八雲さんの熱い思いが感じられるよね
この後、宍道湖に近い住まいに移り住み、八雲さんとセツさんが出会うことになります。
波乱万丈な人生を送ってきた八雲さんですが、セツさんも壮絶な生活をおくってきました。
そんなお2人がどのようにして結婚に至ったのか、紹介していきたいと思います…!
小泉セツと小泉八雲の結婚馴れ初め

小泉セツさんと小泉八雲さんの馴れ初めにはどんな背景があったのか、以下の3つについて調査しました。
出会い:1891年
交際期間::約5年
結婚時期:1896年
18歳差の2人が、どんな経緯で結婚したのかまとめました。
出会い

小泉セツさんと小泉八雲さんが出会ったのは島根県。
詳細な時期については諸説ありますが、1891年2月初旬頃というが代表的な説のようです。
前年に来日した八雲さんの身の回りの世話をする「住み込み女中」として、セツさんが雇われました。

八雲さんと出会った頃、小泉家と養父母である稲垣家の家計を背負っていたセツさん。
明治維新によって士族は没落、稲垣家も小泉家も困窮していたといいます。

セツさんは11歳から働きに出てたんだって!
そんな折、知人から「外国から来た教師のハーンさんが、日本で不自由な暮らしをしている」と教えられたそうです。
日本で初めて迎えた豪雪の冬に、八雲さんは体調を崩して寝込んでしまったとのこと。
外国人に対して抵抗がなかったセツさんは、紹介を受けて八雲さんが滞在する住まいに出向きました。
初対面ですぐに2人は惹かれ合い、セツさんは八雲さんについて次のように語っていたそうです。
ごく正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました
引用元:しまね観光ナビ
18歳の年の差や文化の違いがあったにもかかわらず、瞬く間に恋仲になったセツさんと八雲さん。
ただ、小学校を優秀な成績で卒業したほど勉強隙だったセツさんは、幼い頃から物語が好きだったそうです。
文学という共通の関心事があったことで、何か通じ合えるところがあったのかもしれません。
そんな、すっかり主人と住み込み女中といった間柄ではなくなった2人はまもなく事実上の夫婦生活を始めますが、正式に結婚するのはしばらく先の話です。
交際期間

1891年11月、八雲さんが転勤で熊本の中学校に赴任すると同時に、熊本へ一緒に転居したセツさん。
2人は現代でいうところの“事実婚”だったのではないかと思われます。

出典「小泉八雲伝」
そして意外にも、勉強が優秀でも英語は得意ではなかったというセツさん。
八雲さんと意思疎通をはかろうと猛勉強したようですが、なんとも上達しなかったといいます。

言葉の壁は想像以上に高かったんだね
しかし、なぜか八雲さんが話す片言の日本語は理解できたセツさん。
2人の間で交わされた共通言語の名は「ヘルンさん言葉」と呼ばれ、このヘルンさん言葉を通して八雲さんとコミュニケーションをとっていたそうです。

そんな折、1893年4月にセツさんは第一子を妊娠。
これを機に、八雲さんは自身の帰化を考え始めました。
結婚時期

1896年、小泉八雲さんの日本への帰化手続きが完了。
セツさんの戸籍に八雲さんが入るかたちで、2人は正式に結婚しました。
当時では珍しい国際結婚でしたが、セツさんと八雲さんが日本で191番目の国際結婚だったそうですよ!

結婚した年、小泉さん一家は熊本から東京へ引っ越します。
セツさんはヘルンさん言葉を駆使して、八雲さんの執筆活動を支えていました。
セツさんが読み聞かせする民話や怪談を、八雲さんが再話する形で執筆していたのだそう。

セツさんの語り部としての才能にも八雲さんは惚れ込んでいたみたいだよ♡
結婚後に出版された、八雲さんの作品の一部がこちらです。
『耳なし芳一』や『雪女』は多くの人が知る八雲さんの代表作ですよね♪
今度の朝ドラばけばけ楽しみ!
— ⚡🌲🦉 ぽん︎🥧☕ 🍑⚡ (@tanpopomunyans) August 13, 2025
小泉八雲とのその妻のお話。
しかも主役はグラスハートでユキノちゃん役の髙石あかりちゃん!
耳なし芳一、雪女……読みたくなった pic.twitter.com/EnzVtnNc1P
セツさんは八雲さんとの間に4人の子をもうけ、多忙ながらも幸せな日々を過ごします。
ところが正式な結婚から約8年後、八雲さんが54歳で死去。
晩年、八雲さんはセツさんを本棚の前に連れて次のような言葉を贈ったといいます。
自分に学がないと嘆くセツに八雲は自著を示し「この本、みなあなたのおかげで生まれましたの本です。世界で一番良きママさん」と、ヘルン言葉で感謝したとされる。
引用元:山陰中央新報デジタル

八雲さんのヘルンさん言葉に感極まるものがあるね…!
八雲さんが生前から残していた遺言状のおかげで、遺産はすべてセツさんに渡り、セツさんは八雲さん亡き後も困窮することなく生活することができたそうです。

セツさんは八雲さんが亡くなってから27年後、64歳でこの世を去りました。
セツさんの生涯の中で八雲さんと過ごしたのは13年ほどで、出会う前の23年間と死別後の27年間に比べると長くはないんです。

しかしながら、セツさんにとっては濃厚な時期だったという記述がありました。
ハーンに出会うまでの23年、夫没後の27年に比べると短いですが、おそらく彼女が最も生き甲斐を感じ美しく輝いていた時期だったのでしょう。
引用元:小泉八雲記念館
また、それは八雲さんにとっても同じで、壮絶な幼少期を過ごした2人は夫婦となって初めて、心安らげる居場所を手にすることができたといえます。

セツさんと八雲さんの人生が、朝ドラの中でどんなふうに描かれるのか楽しみ♪
小泉セツと小泉八雲の子供は4人

小泉セツさんと小泉八雲さんの間には4人のお子さんがいらっしゃいました。
第一子:長男
第二子:次男
第三子:三男
第四子:長女
それぞれのお子さんに関するエピソードを紹介します。
第一子:長男

小泉セツさんと八雲さんの第一子である一雄さんは、1893年11月17日に誕生。
一雄さんには「レオポルド・カジオ・ハーン」という英語名がありました。
八雲さんが亡くなってから、著作権問題や著書の出版、訪問者の対応などでセツさんは忙しかったとか。
こういった様々な用事を、一雄さんはセツさんと一緒にこなしていたそうです。

一雄さん自身もまだ子供だったのに、長男として一家をしっかりと支えてたなんて親孝行すぎ!
事務職やホテルマン、教職など多数の職歴を持っていた一雄さん。
そんな中、最終的にはお父さんと同じ執筆業を選んでいます。
著書『父「八雲」を憶う』には、八雲さんとの日々や家族とのエピソードを綴っていました。
現在「小泉八雲記念館」の館長をされているのは、一雄さんの孫にあたる小泉凡さんです。

引用元:小泉八雲記念館 (@hearnmuseum) · X

セツさんと八雲さんにとってはひ孫にあたるんだね
世代を超えて八雲さんの作品やセツさんとの日々が語り継がれているなんて素敵ですよね…!
第二子:次男

小泉セツさんと八雲さんの第二子である巌(いわお)さんは、1897年2月15日に誕生。
巌さんは4歳の頃に、セツさんの養母である稲垣トミさんの養子になりました。
そのため兄妹の中で唯一、苗字が違うんです。
セツさんの書いた「思い出の記」では、巌さんが1番父親似だと述べられていました。
『思ひ出の記』 小泉節子著 ヒヨコ舎
— 盧生(夢から醒めた) (@7795Joegun) September 25, 2024
小泉八雲の妻セツによる、ともにあった日々の思い出。
セツは八雲をして「ユオ、アーラ、デー、セテーシタ、レトル、オメン、エン、デー、ホーラ、ワラーダ」と語らしめた。ヘルンとセツの出会いは、二人にとって、いかに幸福なものであったことかと思う。#読書 pic.twitter.com/0blPE2NCq7
また兄の一雄さんによると、兄弟で1番成績が優秀だったそう。
何事にも積極的で、スポーツ好きな上にハンサム、異性にも人気があったみたいですよ♪
巌さんは京都大学英文科を卒業して、中学校の英語教師として働いていました。
第三子:三男

小泉セツさんと八雲さんの第三子である清さんは、1899年12月20日に誕生。
清さんは「母っ子であった」との記述があります。
また、中学校の展覧会で絵の才能が見出された清さん。
東京美術学校に入学して、絵の勉強をしながら音楽を愛好していました。

清さんは、特に西洋の音楽を好んでいたそうです。
体調の問題で学校を中退した後は、京都や東京の映画館などでバイオリンを演奏して生計を立てていました。
そして、46歳の時に画家として再始動。
絵の具をチューブからそのままキャンパスに絞り出したような、力強い画風の作品を残しています。
第四子:長女

小泉セツさんと八雲さんの第四子である寿々子(すずこ)さんは、1903年9月10日に誕生。
八雲さんが53歳、セツさんが35歳の時に生まれた、初めての女の子でした。
残念ながら、寿々子さんが1歳になってまもなく八雲さんは亡くなっています。

八雲さんも寿々子さんの行く末を見守ることができず、心残りだったみたい
寿々子さんは生まれた頃から体調が不安定で、幼少期から病気がちだったといいます。
セツさんは自身が亡くなるまで、寿々子さんの世話をしていたそうです。
寿々子さんが29歳のときにセツさんが亡くなってからは、長男・一雄さんのご家族と共に暮らしていました。
小泉セツと前田為二の離婚理由は?

小泉セツさんと元夫・前田為二さんとの離婚理由については、次のように言われています。
小泉セツさんは、18歳の時に最初の結婚をしました。
そのお相手が、旧鳥取藩の士族の次男だった前田為二(まえだ ためじ)さん。
しかし結婚から1年ほどで、前田さんが困窮した生活に耐えられずに家を出たのだと言います。

元々、セツさんの家系は父方も母方も名家でした。
ところが、セツさんの幼少期は士族階級の特権が失われた時代。
養子に入った稲垣家も時代の波にもまれ、厳しい生活を余儀なくされます。

引用元:朝ドラ「ばけばけ」公式 -X
経済的な理由で進学も諦めたセツさんは、若くして一家の生活を支える立場になりました。
そんな状況の中、前田為二さんは婿養子になることに。
事業に失敗した稲垣家には負債もあり、婿養子としては相当なプレッシャーがあったと推測されます。

苦しい生活が原因で前田さんは蒸発したんだって!
そして、八雲さんと出会う前年、セツさんは22歳で前田為二さんと正式に離婚。
家禄を失い幼少期から家計を背負い、壮絶な生い立ちをもちながらも結果的に八雲さんと出会い生涯仲良く暮らしたというセツさん。
八雲さんとの生活がセツさんの人生をあたたかいものにしたことはいうまでもありません…!
まとめ
今回は、小泉セツさんと小泉八雲さんの結婚の馴れ初めやお子さんのこと、元夫・前田為二さんとの離婚理由についても紹介しました。
激動の時代に生まれ、壮絶な生い立ちの末に出会ったお2人が、幸せな家庭と心の拠り所となれたことはこれからも多くの人に語り継がれていくことでしょうね…!
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